20140823 MYOJO 10月号 10000字インタビュー全文〜桐山照史〜

4人でやっていこうって一度は腹をくくりました

ー大晦日のカウントダウンコンサートで、一度は(中間)淳太くん、重岡(大毅)くん、小瀧(望)くん、桐山(照史)くんの4人でデビュー発表。複雑な心境だったんじゃない?

「もちろん、7人がいいってずっと思ってました。……でも、この言葉を、どう受け取ってもらえるかわからないですけど、僕は一度は“4人でやっていこう”って腹をくくりました」

 ーそうだったんだ。

「濵ちゃん(濵田崇裕)、神ちゃん(神山智洋)、(藤井)流星……。3人がいたほうがいいに決まってる。でも、俺らが“入れたい”って言うのはおかしいんじゃないかって。“デビューって、そんな簡単に決められるものなの?”って。そんなん言い出したら、関西jr.には、ほかのメンバーもおる。がんばらなかったヤツなんて、ひとりもおらん。みんな思いますよね。“じゃあ、俺も入れてよ”って」

ーたしかにそうだね。

「めっちゃ悩みましたね。でも、この世界のいろんなノウハウを持ってる事務所が、べストな形はこの4人だと決められたなら、なんの知識も経験もない僕らが、感情だけで人数に関して口を出すことは甘いんじゃないかって。デビューって、そんなに軽いものじゃない。4人でやるって決まった以上、“もし7人だったら”なんて逃げ道を作ったら、絶対うまくいかない。だから、カウントダウンのとき、僕は“この4人でデビューなんだ”って、腹をくくったんです」

“絶対に芸能界に入る”って決めてました

ーじゃあ、デビューに至るまでを、さかのぼって聞いていくよ。誕生日、8月31日だよね。

「そうなんですよ。夏休みの最後の日。うれしいやら悲しいやら。なんで、そんな日なんやって。オカン、もう1日、ガマンしてくれって話ですよ(笑)」

ー“照史”って漢字、珍しいよね。

「“てるし”とか“てるふみ”ってよく呼ばれてました。でも、人とちがうう読み方ってのが気に入ってます。最近、うれしかったのが、“きりやまあきと”ってケータイに入れると、一発で変換されるんです。デビューしたんだって実感しますね」

ー小さいころ、どんなコだったの?

「ヤンチャでしたね。お兄ちゃんが4つ上なんですけど、ようケンカして。あと、ずる賢かった(笑)。カップラーメンが好きだったんですけど、ふだんはオカンがごはん作ってくれるんで、土曜の昼しか食べられなくて。でも、食べたいじゃないですか。フツーに“食べたい”って言ってもダメなんで、先にフタを開けて、“開けちゃったんやけど、食べていい?”って聞きに行くっていう(笑)。それと、ちっちゃいときから、人前でしゃべったり、歌ったり、踊ったりしてたんですよ。近所のガレージをステージにして」

ーかなり早いタイミングでダンスを習い始めたんだよね?

「保育園を卒園する前くらいに、オカンに“ダンスやミュージカルを教える教室があるけど?”って聞かれて、“やる!”って即答したんです」

ダンスに興味があったんだ?

「ないない。“ダンス!?それ美味しい?”くらいな感じ(笑)。でも、“人とちがうことができる!”って思ったんですよね」

ー 人とちがうことがしたかったんだ。

「変わってたっていうか、人が少ないほう、少ないほうに行きたかったっていうか。単に目立ちたいだけっていうか(笑)。サッカーもやってたことがあるんですけど、流行りで人数が多かったんです。もう、どうやってサボるかってことしか考えてなかったですね」

ダンスはサボらなかった?

「1回も休んだことないです。楽しかったから。最初は全然踊れなくて。でも、今もそうなんですけど、“できひん”って思ったら楽しくなるんですよ。落ち込んじゃうんじゃなくて、“絶対、できるようになってやる!!”って。自分ができないことが、意味がわからないっていうか、許せないっていうか」

ーそのころ、夢ってあった?

「3年生くらいには、“絶対に芸能界に入る”って決めてました。火がついた瞬間があるんですけど、担任の先生に“SMAPに入りたい”って言ったんです。そしたら、“照史じゃムリだよ~”って、冗談っぽくはぐらかされて。僕は真剣だったからカチーンときて。“絶対なったる!”って。だから、芸能界に入りたいとか、入れたらとかじゃなくて“入る!”って、その瞬間に決めたんです。今、その先生に本当に感謝してて。導火線に火をつけてくれたから」

ーそうだね。

「当時好きやったんがSMAPさんとKinKi Kidsさんで。頭おかしいんですけど、KinKi Kidsの3人目になって踊ってる夢とか、よう見てました。なぜかコンサートしてるのは、近所のガレージなんですけどね(笑)」

ーちなみに、夢の中で桐山くんのポジションは?

「俺、真ん中です(笑)」

ーだから、ひとりでごはん食べるのも好きじゃなかったんだ。

「はい。あのころは、とくに不安定で。関西jr.を盛り上げられず申しわけないって思いが強くて、だけど自分じゃない誰かが、呼ばれる仕事があったりすると、“やっぱ俺じゃダメなんだ”って、自分を追い込んじゃう。でも、桐山照史という人間は、笑ってなきゃいけないって思い込んで、人前では笑い続けて。そんなこと思ってること、誰にも言えなかったですけどね」

ー支えてくれる人、いた?

「どうしたらいいのかわからなくなって一度、安田(章大)くんに相談したことがあって。そしたら言われたんです。“他人の幸せをよろこんであげられる人間になりなさい”って。その言葉に救われましたね。いろんなことがフラッシュバックしたんですよ。俺は、誰かの仕事が決まると不満だったりもした。でも、関西jr.のメンバーは、僕がドラマに出たりすると応援し続けてくれた。“がんばってな!がんばってな!”って」

ー支えられてたことに気づいたんだ。

「僕は、関西Jr.を引っ張ってたんじゃない。ずっと支えられてた。ひとりでガツガツ行ってるように見えたかもしれない。でも、それができるのは、関西Jr.のメンバーがいてくれたから。バーッて走って勝手にコケても、後ろで支えてくれるメンバーがいたから。さっき、関西は東京に比べて不利みたいなこと言いましたけど、デメリットって見方を変えればメリットで。先輩のバックにつけない分、関西Jr.は、それだけいっしょにいる時間も長い。マネージャーさんも、頻繁に来れるわけじゃないから、後輩が遅刻したりしたら、先輩がちゃんと怒ったりもする。つながりがより深いというか。みんなで支え合う。もう関西Jr.で、ひとつの家族みたいなもんです」

ーじゃあ、関西Jr.だった(中山)優馬くんについては、どう思ってた?

「もうね、入って来てすぐ優馬は見えてました。デビューが。自分の子どもながらに(笑)。“こいつは行くな”って。だから、悔しいって感情が芽生えるはずなのに、そうじゃなかったんですよね。それに、簡単にデビューしたって見えたかもしれないですけど、まわりから見えるより、優馬は優馬で大変やったと思います」

その答えを聞いて、心は決まった

ー2011年には、Sexy Zoneと、A.B.C-Zのデビューが決まったよね。

「そこ、いちばん“やばいな”って思いましたね。次にデビューするグループって、見えるって言われてるんですよ。“キスマイの次は、関西Jr.ちゃうか?”って、すっごい言われてて。でも、俺らじゃなかった。また、まわりの期待に応えられなかったって」

ーやめようと思った3度目が、2013年の5月って言ってたよね。

「はい。淳太くんと濵ちゃんと3人でジャニーさんに“デビューしたいです”って伝えにいこうって話し合ったんです。“ここで言ってムリなら、もうデビューはないで”って。気持ちを伝えてもムリやったら、やめようって考えてたんで。こんだけムリやったんなら、ムリなんやろうなって」

ー社長に何て言われたの?

「“大変だよ”って、素っ気なかったですね」

ー覚悟を持って直談判したけど、想いは届かなかったんだ。

「でも、翌日、レコード会社に連絡を取ってくれたんです。デビューに向けて、動き出してくれた。その後も、何度も話し合って。俺はグループ名にジャニーズってついたグループって実はないんで、“ジャニーズってつけるのはどうですか?”って言ったら、“いいね”って言われたり。ジャニーさんが“グループ名、7WESTってどう?”って言うんで、“いや、それもうあるで”とか(笑)。そんな会話があったんで、僕は7人でデビューできると思い込んじゃって。年末に“4人で”ってことを伝えられえて……」

ーそれで、一度は腹をくくったんだ。

「はい」

ーきついこと言うけど、その決断は残酷だったんじゃない?

「そうですね。残酷だと思います。4人で何度も話し合ったけど、とくに、しげ(重岡)は最後まで7人ってことにこだわってましたし」

ーそうだったんだ。

「僕、初めて4人って言われたとき、泣きそうになってタッキー(滝沢秀明)に電話したんです。“7って思ってたんですけど……”って。そしたら、“おまえはどうしたい?”って聞かれて。“7でやりたいです”って答えたら、“これからおまえのひと言ひと言で、グループは大きく変わる。3人の人生も大きく変わる”って言われて。その通りだなって、余計悩んじゃって。もしも3人が追加されて7人になっても、それは3人にとっていいことなのか、わかんない」

ーそうかな?

「だって、追加されて4+3みたいな形になったら……。それに、次にチャンスが巡ってくるかもしれないのに、無理矢理くっつけて、3人の人生を弄ぶようなことになるかもしれない……。めっちゃ悩んで……。それでもやっぱ7人がよくて。ジャニーさんに電話したんです。留守電だったんで“7人でがんばってみたいです”ってメッセージを残して。でも、次に呼ばれたときも、4人ってなってて。想いを伝えても7じゃなかった。これは腹くくらなあかんのかなって。選ばれた4人も、動揺してたんで、もう迷っちゃダメだって自分に言い聞かせて、“後ろ振り返らんとこ”って言ったんです。それは、切り捨てたんじゃなくて、このままずっと人数に関して引っかかってしまうんであれば、この4人にも未来はないから。7人がいいのは当たり前。でも、ここまできたら、それは酷やけど、今、やれることを全力でやろって。引きずらずにやろって。留守電のことは伝えてないんで、ほかの3人からしたら“なんで、もう腹くくってんの?”“冷たすぎない?”って思ったかもしれないですけど。それで、カウントダウンを迎えて」

ー選ばれなかった3人とは、何か話した?

 「1月4日にコンサートがあって、顔を合わせたんですけど、めっちゃきつかったです。でも、俺らより、3人のほうがぜったいきつい。7人だけじゃない。ほかの関西Jr.もきつい。俺らが、“ごめん”って言うのはちがうし、フツーに接するのがいちばんだと思ったんですけど、フツーにはできなかったですね」

ーそれから7人になった経緯って?

「コンサートでいっしょにステージに立つと、家族みたいなものやし、しっくりくるんです。3人には、俺らにないもんいっぱいあるし。絶対7人だったら成功するって思えて。コンサート後、メンバー全員に連絡して。“そうはしたくない、でももし、3人が追加されたとして、俺らのバックみたいに見えてしまうことがあるかもしれない。4と3みたいに見えてしまうかもしれない。それでもいいの?”って」

ーみんな、なんて答えたの?

「全員、“それでもいい”って。僕は人数のことに関して、めっちゃ悩んだし、どう自分が動けばいいのかわからず無力さも感じた。1コまちがえると、いろんな人を悲しませてしまうから。でも、その答えを聞いて、心は決まって。ジャニーさんに、もっかい電話して、初めて自分の口から“7人でいきたい”って直接伝えたんです。そしたら、“自分だちで決めたんだから、責任を持って、ちゃんとやるんだよ”って言われたんです」

この7人やから、晴れたんやろうな

ー今、振り返って、デビュー前の一連のできごとをどう思う?

「俺ら4人の力で、7人になったとは思ってないというか。ジャニーさんは、デビューって発表してからも、“4がいい?7がいい?”って聞いてくれてたんです。ずっと決めかねてたんだと思うんですよね」

ー7人での活動、不安はない?

「芸能界のイロハとかノウハウからしたら、4人がよかったのかもしれないんやろうけど……。でも、そんなことどうでもいいやって。そういうことじゃないやんって。4人が正解だとしてもモヤモヤが残るんなら、成功するか、失敗するかわからん、それでも、この7人で失敗するなら、それが本望やと。もちろん、この7人だったら、絶対に失敗しない自信がありますけどね。ただ、俺が一度、腹をくくったのは事実で。3人があきらめないでいてくれたから、7人になれたんだと思うんです」

ーなるほど。

「それと、7人でスタートを切ったからには、4+3じゃない。7人、横並び。ここからは目立ったもん勝ちです」

ーファンをこんなに不安にさせたグループも珍しいよね。

「ですね(笑)。だからこそ、売れたいです。この7人で。こっから俺らが、どんだけできるかが、恩返しにつながるはずだから。まだ全国区にもなれたとも思ってないし、ここからですけどね。“よーい、ドン!”ってピストルが鳴って、まだ右足を上げただけ。まだまだまだまだ。これからです」

ー最後に、この7人でよかったって、いちばん強く思った瞬間っていつ?

「いちばんは、今年の3月にハワイに行ったときですね。3000mを超える山の頂上で、夕陽をバックに7人で撮影することになったんですけど、すっげー土砂降りで(笑)。もう絶対、ムリみたいな。でも、夕陽がいちばんきれいな瞬間、一瞬だけ雨雲が切れて。夕陽が顔を出して、空がキレイにピンクに染まったんです。あの夕陽を7人で見たとき思いました。この7人やから晴れたんやろうな。この7人で、よかったなって」

 

「いかつい」見た目のウラに 「ビビリ」な体がいた。

おしゃべりな笑顔のウラで「期待に応えられなかった」と悔やんだことがあった。

「腹をくくった」デビュー発表。歓喜の表情のウラに複雑な想いを抱えていた。

今の笑顔のウラには絶対的な「自信」しかない。「この7人やから」こそ。

 

 

 

20141222 MYOJO 2月号 10000字インタビュー全文〜重岡大毅〜

“4なんや”って受け入れたっていうか

ーメンバーが、“7人でのデビューにいちばんこだわったのが、しげだった”って言ってたよ

「そうなん!?そう見えてたか~。なんか不思議やね」

ー7人にこだわったのは、なぜ?

「うーん、美談にしたくないんで先に言いますけど、カウントダウンのとき……やっぱり、事務所の意向がいちばんやったから、1回、4でいくってなったタイミングでは、俺も“4なんや”って受け入れたっていうか。でも、でもなんかこうモヤモヤが4人ともあって、7って想いを捨てなかったんかな。うん。捨てられなかったんですよ。カウントダウンのときは、それを必死に抑えてる感じがあって……」

ー今、7人でよかったなって、どんな瞬間に思う?

「正直、4から7になった経緯に関して改めて考えることは、今までほとんどなくて。自分の中では忘れたいことなんで。だから今、考えてみると……、7人でよかったって思う瞬間は……毎日ちゃいますか。何かが起こって“わっ!7人でよかった!!”って思うんじゃなくてこうやって7人でいるのが当たり前になっていることが、やっぱいちばん幸せで」

ーじゃあ、これまでのこといろいろ聞こうと思うけど、大丈夫?

「はい。俺はけっこう隠してきたんで、自分のこと。あんまり、本音を出すん嫌いなんですよ。今日は、正直に話そうかなって思ってます(笑)」

完全にスネ夫タイプ、クソガキでした

ー小さいころ、どんなコだったの?

「頑固だったらしいですね。姉が3つ上なんですけど、オモチャにしても、食べるものにしても、“お姉ちゃんといっしょがいい!”って頑なだったらしいです」

ー気が強かったんだ。

「でも、めっちゃ泣き虫でしたね。すぐ泣いてました。口ゲンカで負けたときとか、泣きたくないんですけどガマンできないんですよ。まあ、でもクソガキやったかな、ホンマ。いたずらもいっぱいしたし」

ーそこ、今も変わらないじゃん。濵田(崇裕)くんが、「どっかで自分のケータイが鳴ってるって思ったら、しげがパンイチでブルブル小刻みに震えてて。よく見たらお尻の割れ目に俺のケータイがはさんであった!」って言ってたよ。

「ハハハハハハ。やりました、やりました。やったらあかんこと、すごくやりたくなるんですよ。濱ちゃんの困った顔見るの好きなんです」

ー小さいころから変わんないんだ。

「あ、でも俺、小さいころは、なんかもっと屈折してたっていうか。ひねてたっていうか。小学生のときとか、草を口にくわえてシーソーで寝てたりとかしましたからね」

ーどういうこと?

「大人って食事のあとに爪楊枝をくわえたりするじゃないですか。それがカッコいいって思ったんでしょうね。ちょっと人とちがうことするのが好きなんで。みんなが無邪気に遊んでる中、“俺はチゲーぜ”みたいな。さすがにすぐ気づきましたけどね。これ、ちがうわって(笑)。完全に俺の中の黒歴史ですね」

ー 人とちがうことが好きだったんだ。で、こじらせたと。

「そうっすね(笑)。ズルイとこもありましたね。クラスで騒いだり、悪さしたりするじゃないですか。でも、自分から率先してはやらないで、誰かがやってるのにのっかるんです。先頭に立つと、いちばん怒られるから。完全にスネ夫タイプでしたね」

 ーそうだったんだ。

「ウソも、まあようつきましたし。小5とかかな!?塾の帰り道、家まで歩いて10分くらいだったんですけど、その日、何かすごく怖かったんです。ビビリだったんで。家に電話して、ウソついたんですよね。“変なオッサンがついて来たから迎えに来て”って(笑)。ものの数分で、おとんが走って来てくれて。こすいでしょ?」

ーたしかに(笑)。中学では?

「まだ、こじらせてましたねえ。帰り道でクラスの女子が前を歩いてたら、急に走って、横を通りすぎるとき、“やべ、遅れる!”みたいに時間に追われてるアピールして駆け抜けて。見えなくなったら、また歩くみたいな。そういうのがカッコいいと思ってて(笑)」

ーハハハハハ。何か中学時代にがんばったエピソードとかないの?

「うーん、部活もやめて、家でテレビゲームばっかやってたからなあ」

 ー部活、なんでやめちゃったの?

「流されやすかったんですよね。テニス部に入ってたんですけど、そもそも小5、小6とサッカークラブに入ってて。中学に入ったらサッカー部に入るつもりやったんですけど、ちょうど『テニスの王子様』が流行って、サッカークラブに入ってたヤツの半分くらいがテニス部にいきよったんですよ。俺も流されてテニス部に入って。なんかチャラいヤツが多くて、練習中も先輩と“ウェ~イ!”みたいな感じでふざけて、ろくに練習もしない。その先輩がワーってやめて、ヘタレで数少なくなったら何もできへんから、俺たちもやめて。それでゲームざんまい。マジで自分でもクズだったと思います」

ー小さいころの夢って何だった?

「うーん、友達が“サッカー選手になりたい”って言ってたら“俺も~”って言ってたし、幼稚園のころなんかめちゃくちゃで、“大毅と大工は似てるから大工になる!”って。もう名前の響きにすら流されてたっていう(笑)。本気で何かに憧れたり、目指したいと思ったことがなかったんですよね。将来なりたいこと、なんにもなくて」

どっかで探してたんだと思うんです

ーじゃあ、オーディションを受けたのも流されたとか?

「正解!ジャニーズのこと全然知らなかったし、それこそ“ケッ!”って思ってましたからね(笑)。完全に嫉妬なんですけど。キャーキャー女子に言われやがってって」
ーそれが、またなんで?

「中2のとき、職業体験ってのをやったんです。5人ひと組班を組んで。ジャニーズに入りたいって思ってる友だちとたまたまいっしょで。同じ班の女子もジャニーズが好きで。“私、履歴書の送り方しってるよ”って話をしてた流れで“重岡もどうや?”って誘われて」
ーいっしょに送ったんだ。

「はい。でも、“まあええよ”みたいなことを口では言いながら、内心、“いけるんちゃう、俺”ってのは、ちょっと思ってて(笑)」

ー腹黒い!

「でしょ。で、いっしょに履歴書を書いて、友だちはいっぱいアピールポイントを書くんです、びっしり。でも俺ん中では、がんばるってことがなんか恥ずかしかったんで、“別に受かりたくないよ”って感じを醸し出しながら、テキトーに書いたんです。“特技、サッカー”みたいに、どこもひとことだけのスカスカの履歴書を書いて。写真もテキトーに撮って。写真と書き終わったのを女子に渡したら、あて名を書いて、のりづけして持って来てくれて、“あとはポストに出せばいいだけだから”って。俺、それを1回、家で開けたんですよね」

ーなんで?

「内心、写真の映りが悪いなあって思ってて(笑)。夜中にこっそり証明写真を撮りに行って、貼り直して送ったの覚えてます」

ーそして、書類選考合格の通知が届いたんだ。

「半年くらいしてかな。完全に忘れてて。恥ずかしかったんで、親には言ってなかったんです。そしたら、おかんが“ジャニーズ事務所ってとこから何か来てんで”って。うれしくて、いっしょに受けた友だちにソッコー電話したんですけど、このときもやらかしてんですよね。いきなり“俺、受かったでえー!!”って電話して。友だちは受かってなかったのに」

ーたしかに、やらかしてるね。オーディションはどうだった?

「緊張はしましたよね、やっぱり。人いっぱいいるし、カッコいい人もいっぱいおるし。余裕なかったんでしょうね、(藤井)流星といっしょだったはずなのに覚えてないんですよね。でも、関西jr.が何人かダンスを教えてくれたんですけど、その中に神ちゃん(神山智洋)おったんは覚えてんなあ。すっごい、キラキラして見えましたね」

ー選ばれると思った?
「カッコいい人もいっぱいおったし、俺はダンス未経験やったし、どう思ってたんやろ……。あ、でも、なんで選ばれたんかって考えたことあるんですよ、最近。たぶん、俺、踊ってるときに笑ってたからやって。計算で笑ってたわけじゃなくて楽しかったんです、踊るのが。みんな必死でやってたんで表情が硬いでしょ?俺は笑ってたんで、それがジャニーさんの目に留まったんかなって。なんか、“あ、これ楽しい”って直感的に感じたんですよね。探してたものを見つけたっていうか」

ー探してたもの?

「当時、ゲームにすっごいハマってたんですけど、これちょっとちがうようなみたいなこと感じてて。流されて、流されて、学校生活を送ってここまできて。自分で決めたこともほとんどなくて、何かに真剣に打ち込むこともなくダラダラと日々を過ごしてて。だから、どっかで探してたんだと思うんです。燃えられるものを。オーディションの日、“あ、これだ!”って」

ーその後どうなったの?

「オーディション中に、“こっち来て”って言われて写真撮ったんですよね。それが雑誌に載って。“あれ、俺、受かったんかな?”って。でも、別に仕事に呼ばれてへんし、“どういうこと?”みたいな」

ーその雑誌、自慢したんじゃない?

「誰にも見せたくなくて。だって変な顔やったもん(笑)。自意識過剰なんですよ。人の目、めっちゃ気にしてるんですけど、写真を撮るときは気ぃ抜けてる。なんでなんやろ(笑)。目立ちたい、けどもなんか恥ずかしいから目立ちたくないって、両方の気持ちがありましたね」

熱い想いがあるけど、ぶつける場所がなくて

ー最初の仕事って?

「神戸でやった関ジャニ∞のライブですね。当日呼ばれて。ガッツリ稽古をしてのは、安田(章大)くん、村上(信五)くん、丸山(隆平)くんたちのソロコンで」

ーステージからの景色、覚えてる?

「なんか、とにかく燃えたというか、楽しいというか、それしかなかったです。ぶっちゃけ、そのとき大先輩が前で踊ってたんですけど、どうでもよかった(笑)。まだ、自覚もなんもなかったんで」

ーでもダンス未経験で、最初はレッスンが大変だったんじゃない?

「覚えるのが遅かったんで、よく怒られて。最初のころは、怒られたくないってのがモチベーションのひとつでしたね。家の裏に公園があるんですけど、夜、街灯の下で自分の影を見ながらひとりで練習したりして。やっぱり呼ばれなくなるコもおったんで、そうなりたくないなってのが強くて」

ーがんばったね。

「ただ、そのときもじゃっかん、酔ってるんですよね。こっそり練習してる自分に。学校も近かったんで、“誰か同級生の女のコ、公園通らんかな”みたいなことも思ってて(笑)。見られたくないけど、見られたい。なんか、青春でしょ?」

ー青春だね。でも、確実にジャニーズというものが、重岡くんの中で大きくなってったんだ。

「いつからかわかんないですけど、完全に僕の中心になってました。だって、ずっと憧れてた、人とちがうことじゃないですか。しかも、楽しい。それに、やっぱり“ジャニーズやってんねんね”とか聞かれたりすると、うれしかったりするんですよ。これは、みんな絶対そう。ヤバイ、包み隠さず答えすぎてもうた(笑)」

ーjr.時代、神山くんとよくいっしょに帰ってたんだよね。「車内でうるさかったから、ちょっと他人のふりしてた(笑)」って言ってたよ。

「マジで!それ、気づいてないですよ。マジか~。でも、なんかねぇ、自分がこう、わってしゃべって誰かが笑うのが好きやったんですよね。神ちゃんが笑ってくれるのが至福の時間やったのに、他人のふりされてたとは……」

ーじつは濵田くんも、「最近、よかったことは、しげと電車に乗らなくなったこと」って……。

「おい、濵田!!まー、たしかに声デカイんですよね、俺(笑)」

ーハハハハハハ。2007年にHey!Say!7WESTが結成されたときはどうだった?同期の流星くんは選ばれてるのに、選ばれず悔しくなかった?

「うーん、流星は入所して、すぐにユニットとか入ってたし。それこそ、神ちゃんとかと組んで。だから、全然ちがう、俺とはグレードがちがうと思ってたというか」

ーデビューしたいって気持ちはなかった?

「ありましたよ。でも、なんかデビューしたいっていうより、最初はユニットを組みたいってのがありました。すごい。目の前にB.A.D.とかBOYSがいてキラキラしてたんで。ただ、まだ自信がなくて」

ー自信がない?

「初めて言いますけど、2008年に、ジャニーさんから“Hey!Say!7WESTに入ってみない?”って聞かれたんですよね。俺、最初、“イヤ”って言ったんです。もうちょっと経験積んで入りたいかなみたいな。今、入ってもなんもできないみたいなことフワッと言ったんですよね。今思えば、アホやなって思います。チャンスなんて何度あるかわかんないのに、変なプライドがあって、“そんなこと言ってる場合じゃないよ”って言われて、入れてもらえることになって」

ーそうだったんだ。2009年は、NYCboysにも入ってるよね。

「東京に呼ばれたんで行ったら、(中島)健人とか(菊池)風磨、山田(涼介)くん、知念(侑李)くんたちといっしょに、“今度、バレーボールのCMやるよ”って言われて。KAT-TUNのライブにも出させてもらって」

ー関西jr.からひとり、東京で仕事をするって、どんな感じだった?

「やっぱりワクワクはすごくありましたね。“俺、どうなんのやろ?”って」

ーHey!Say!7WESTが7WESTになってからは、センターになってるよね?

「そうですね。少しずつ自信もついていきましたね」

ー7WEST時代、重岡くんはセットリストとかを、誰よりもこだわって、意見がぶつかっても絶対に引かなかったって聞くよ。

「そんなこともありましたね(笑)。俺、なんかブレるのがイヤなんですよ。7WESTのとき、“自分たちの強み、よさはどこなんだ”ってすごく話し合って。B.A.D.、BOYS、Veteran、あと東京のjr.とか、周囲のグループを見渡したとき、カッコいい感じの路線のグループはあっても、アイドルの王道的なグループってなかったんです。だから“7WESTは、そこを進もう”ってメンバーと決めて。でも、セットリストをみんなで決めたら、カッコつける曲も入ったりして。だから、“戦うのはそこじゃない”って。そういうとき、僕は引かないんですよ。ブレたくないんで」

ーそんなこともあったんだ。

「はい。何度かユニットコンをやらせてもらって、7WESTとしての自信みたいなんもついていって。7WESTは最初、MCがすごく苦手やったんです。それも少しずつ克服して、お客さんが盛り上がってくれるようになって。ジャニーさんやスタッフさんにもほめていただいて。ファンの人が増えていくのも、目に見えてわかったんです。これ、波がきてるだろって。6人でやった最後のユニットコンとか、めちゃくちゃほめられたんですよ。そのころかな、いちばんギラギラやったんですけど、でもだからこそ、空回りしたというか」

ー空回り?

「熱い想いがあるんですけど、ぶつける場所がないっていうか。もっとやらせてほしい、場を与えてほしいって思っても、感覚としては現状維持で。なんでもう一段階上に行けないんだろうみたいなモヤモヤがありましたね。なんやねんこれって。いたずらに時間だけが過ぎていって。“もうデビューできないんじゃないか”って思いがよぎるようになって」

ー思ったんだ。

「そうっすねえ。デビューできない自分をちょっと、想像するようになったんですよね。もちろん、絶対デビューするって気持ちもあって。絶対デビューするって自分に言い聞かせてたけど、やっぱちょっと不安が頭をもたげたっていうか」

ーそのころ、兄組はどう見えてた?

「デカイ壁ってイメージはあったな。常に関西の第一線を走ってて。そこを超えたいって気持ちは常にあったんですよね、俺もメンバーも」

ー2012年には、メンバーが4人になったよね。

「そうっすねえ。“俺たち、どうなるんやろ”ってのがまずあって。今まで6人でやってたことを4人でやってかなあかんから、やっぱ不安もありましたね。下からは、Kin Kan、なにわ皇子の足音が聞こえるっていうか、勢いつけてきてて。なんか焦りが、めっちゃありました。早くデビューしなきゃって」

ーその不安や恐怖、どうやって解消したの?

「『モモコのOH!ソレ!み~よ!』に村上くんとバトンタッチする形でレギュラーに選んでもらったのが、すごい大きいですね。ちょうど、それが決まる直前くらいまでが、いちばん悩んでた時期やと思います。でも、燃えるもんができたっていうか。人間的にもタレントとしても、学ぶことしかない状況やったんですね。俺は勝手に、伸び悩みというか、やれることやってるのにって思い込んでたんです。学ぶべきこと、伸ばすべきことは、まだまだ山ほどあることに気づかせてもらった。初めての収録の日の朝、村上くんからメールもらって。“ひとつひとつ大事に取り組んでいけ。何かあったら言ってこいよ”って。僕にとっては、すごい転機やったと思います。救われた感はありますね」

ー悩んでた期間、やめたいと思わなかった?

「1回も思わなかったです。1回も。絶対、やめないって思ってましたから。僕、捧げてきたんで、ジャニーズに。人生も、青春っていう青春も全部。ほかの道なんて存在しなかったし、この世界がなくなることが怖かったんで」

何かあったら、動ける男になりたい

ー2013年、デビューが現実味を帯び、でもカウントダウンで発表されたのは7人じゃなく4人だった。さっき、「一度は4人でのデビューを受け入れた」って言ってたよね?

「そうですね」

ーでも、7人でのデビューをあきらめなかった。

「3人が必要だから。もちろん、感情的に入れてあげたいって思いはありましたけど。そんな気持ちだけでどうこうできる環境じゃないんで」

ー3人が絶対必要だった?

「(桐山)照史くん、多才やし、器用やし、全体を俯瞰できる。(中間)淳太くん、いろいろ考えてて自分を持ってるから、相談することも多くて。ずっと壁だと思ってたB.A.D.のふたりと、同じグループっていうのは、最初は多少の葛藤もあったけど、すっごい心強くて。(小瀧)望も、昔からすげーなーって思ってるとこがいっぱいあって。ポジティブだし、物怖じしないし。あいつの心意気とかポジティブさとか、年下やけど分析して盗もうとしたこと何回もあるんですよ」

ー頼もしい3人だね。

「でも、まだ足りないって思ってて。大人は、やっぱりいろいろノウハウがあるんで、テレビでも雑誌でも、7人よりも4人のほうが、ひとりひとりにスポットが当たる。仕事だってグループとして受けたら、4人なら4分の1、7人なら7分の1になるって話もされました……。そうかもしれない。でも、その考えは、僕は絶対受け入れられなくて。7人じゃなきゃダメだって」

ー長年夢見たデビューであったとしても?

「はい。仕事って奪い取るくらいの気持ちがないといけないと思うし、俺は個人としてじゃない、グループとして売れたかったんです。国民的グループになりたいんです。それは半端な想いじゃないんで。そのためには、絶対に3人が必要なんです。だから情やないんですよ、全然。3人が必要やって思ったのは」

ーなるほど。

「だって流星は、ビジュアルで絶対に人気出ると思いましたし、ボケーッとしてるように見えて、本当はいろいろ考えてる。神ちゃんも今までずっといっしょにやってきたから、俺はずっと、見てる。歌もダンスも得意だし、絶対まだまだ伸びるとこがある。濱ちゃんのあのキャラは、ほかの誰かじゃ絶対に出せない。だから4人じゃない、7人のほうが絶対に人気が出るって思ったんです。波風立てず、折れたほうがラクだったかもしれないですけど、それじゃ後から引きずっちゃうんで。絶対7人であることはブレたくなくて」

ーこだわった理由、わかったよ。

「だから、なんか美談にはしたくなくて。情じゃないですもん。そんなん3人に失礼やから」

ーその通りだね。でも、カッコいいね。申しわけないけど、小さいころダメダメだった人の言葉とは思えないよ。

「だからだと思います。ダメなヤツだった過去があるから、カッコいい自分になりたいんです」

ーどういうこと?

「僕、ジャニーズに入るまでの生き方、汚点なんですよね。周囲に流されて、夢も目標もなく、本当の仲間と高め合う喜びも知らず、一生懸命になることもカッコ悪いと思ってた。がんばれば誰かを笑顔にすることができることも知らなかった。ジャニーズに入って、おおげさに聞こえるかもしれないですけど、人生のすべてを学んだというか、いろんなことに気づかせてもらった。いろんなことって言葉じゃ足りないくらい、たくさんのことを」

ーなるほど。

「先輩や、それこそ今のメンバーたちに、本当のカッコよさを気づかせてもらったんです。錦戸(亮)くん、ドラマの現場で会うと、さり気なく“放送でこうなってたで”ってアドバイスしてくれたり、なんか悩みがあったら、関ジャニ∞の先輩は、いつだって、みんな何時間でも話を聞いてくれる。安田くんとか、スタッフさんにチケットを手配してもらうと、僕らが気づいて気をつかっちゃうから、こっそり自費でライブを見に来て感想をメールにしてくれたりするんです。ホント男前やと思います。僕も、そういう生き方したくて。大事なとき、誰かが困ったとき、傍観するんじゃなくて、動ける男になりたいんです」

ーそんな想いが根っこにあるんだ。

「おとんの存在も大きくて。昔はね、朝、学校行こうと思ったときにはおらんくて、夜遅く帰って来て寝る人って認識だったんですよ。でも、当たり前だと思っていることを見つめ直すと、それってすごいことで。ドラマの収録とかで早起きになると、やっぱりしんどいときもあるんです。でも、おとんは、家族のために30年、40年、不満も言わなければ、自慢もせず続けてきた。それに気づいてからは、“がんばってんねん”とか口に出すことって、クソダサいなって思えて」

ー不言実行タイプだね。

「さっき、塾の帰り道が怖くてウソをついた話しましたよね。最近、姉ちゃんと、そんなことあったよねって話してたら、“おとん、裸足のまま走って出てって、カッコよかったな”って言ったんですよ。記憶が不鮮明やったけど、裸足だったかもしれないって思い出して。ウソついたこと本当に恥ずかしくなって。ただ、おとんみたいに、大切な人や、守りたいもののために、何かあったら、なりふり構わず動ける男になりたいって思えて」

思った通りなんてならないんですよ

ー重岡くんが、なりふり構わなかったから、今、7人なんだと思うよ。

「それはないと思います。それに、どっちかっていうと、メンバーに甘えちゃってるのは僕なんで。なんか、あれこれ考えずに、無邪気だったころに戻りたいって気持ちがどっかにあって。デビューもしたんで、やっぱり責任もドンドン大きくなる。石ころ蹴ってるだけで楽しかったころに戻りたいってのが、たぶんどっかにあって」

ーそうなんだ?

「僕、小中高、全部地元で。この前、急になんか通学路を、もう1回歩いてみたくなって散歩したんです。そしたら、いつの間にか泣いてて。なんか、こじつけなんですけど、無邪気だったころに戻りたくて、濵ちゃんのケータイをお尻にはさんだり、小瀧の頭にかぶりついたりしてんのかなって(笑)」

ーメンバーの前なら童心に戻れるってことだと思うよ。

「それを受け入れてくれるメンバーやから、よかったです。ホンマ素直になれてるっていうか、甘えちゃってるなって。メンバーといると、自分を律することができないんですよね(笑)。言うことは言う。やることはやる。でも、それが終わったら、昔のようにはしゃぎ合える」

ーそれを最高の仲間って言うんだと思うよ。ホテルの部屋割り、今もジャンケンなんでしょ?仲いいよね。

「そうですね。グーチョキパーで、3部屋に分かれるまで、キャーキャー言いながらジャンケンしてます(笑)。あ、でも、どんだけふざけ合っても、ここを超えちゃいけないってラインはおたがい守ってるんですよね。長年、ずーっと接してきてるから、こういうときに、こういうことしたら、言ったら、こいつは怒る、嫌がるとかわかってる。やっぱり、関西jr.っていう、いってもちっちゃなコミュニティーでギューッとやってたんで。ライブだってユニットに分かれてやってたって、結局みんないっしょだったわけで。ずーっといっしょだったんで、わかり合ってる」

ーじゃあ、7人でこれからどんなグループになっていきたい?

「そこもずっとブレてなくて、国民的アイドルグループですね。SMAPさんや嵐さんのようになるって、並大抵のことじゃないですけどね。どこがゴールなのかもわかんない。でも、とにかく今をがんばるしかない」

ーそうだね。

「なんかちょっと思うのは、まったくネガティブな意味じゃなくて、どーせ、自分が思った通りになんてならないんですよ(笑)。だから、今だけを見るのがいちばん正解で。今だけですね。大事なのは」

ー7人で今を生きるんだ。

「はい。もちろん、先を考えて今動くこともある。でも結局、未来のためには今がんばらなくちゃいけない。人は変われるから、過去をずっと後悔してたって未来は変わらない。かなわないかもしれないって未来に不安になっててもしょうがない。未来を変えるために大切なのは今だから。俺は俺が今できることをやるだけです。ぶっちゃけ、俺よりセンターに適任な人が出てきたら、そいつが立ったらいいと思ってて。だって、それがグループのためだから。競い合うのが、おたがい高め合うのがメンバーやと思うし。だけど俺はときどき、一生懸命になりすぎてまわりが見えなくなっちゃう。そういうとき、ふと“肩の力抜けよ”って背中を叩いてくれるのもメンバーで。だから、改めて思うけど、過去なんてどうでもよくて、こうやって7人でいるのが当たり前になっている今が、7人で夢に向かって走ってる今が、やっぱいちばん幸せなんだなって思うんです」

 

ジャニーズに入るまでは、流されてばかりだった。 

生まれて初めて出会った「燃えられるものに」 人生も、青春も、すべて「捧げてきた」

そこにあったのは「本当の仲間と高め合う喜び」 7人にこだわったのは「情やない」

最高のグループになる夢には、絶対に必要だったから。